「練馬ショック」はなぜ起きたのか――練馬区長選挙と20年の国政を振り返る
- 宝田 惇史

- 30 分前
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この記事の要点
2026年4月12日の練馬区長選挙で、吉田健一氏が、自民党・日本維新の会・国民民主党・都民ファーストの会推薦の候補者に3万3000票超の大差で勝利し、初当選した。「練馬ショック」と呼ばれている。
練馬区は1993年以降の政界再編で旧民主党系地盤が築かれ、長らく「自公/民主系/共産系」の三極構造が続いていた(野党地盤の弱い板橋区とは対照的)。
2017年の「希望の党」騒動と2018年の吉田公一氏逝去で旧民主党系は空中分解。ゼロからの立て直しとして2022年に擁立されたのが吉田健一氏で、田柄の代々の区民として豊富な地縁を持ち、現職に約2000票差まで迫った。
2026年選挙では政党推薦を一切受けず「完全無所属」で戦い、衆議院解散の影響で自民・維新側の候補擁立が出遅れた。区立小中学校統廃合や約150億円の区立美術館建て替えも争点化した。
当選確定の場には2003年区長選候補の沖山一雄氏が挨拶に立っており、20年越しの結集が一つの線として可視化された瞬間でもあった。本レポートは、「野党が一つになれば勝てる」式の単純な数合わせを退け、地域ごとの事情に応じた個別の模索の積み重ねこそが鍵だと結論づける。
はじめに
2026年4月12日、練馬区長選挙で吉田健一氏が初当選した。自民党や日本維新の会、国民民主党、都民ファーストの会が推薦する候補者に3万3000票を超える大差で勝利し、全国的に「練馬ショック」(産経新聞、日刊スポーツの記事より)といわれるほどの大きな衝撃を与えた。
筆者は、かつて練馬区(光が丘と田柄)で暮らしたことがあり、練馬区議会議員選挙や同区長選挙の現場に携わった経験もある。その経験を活かして、練馬区の選挙の過去約20年間の流れを振り返ることにしたい。様々な人が、「新たな政治勢力の結集」を目指して奮闘してきたことがわかる。それが、今回の区長選挙の結果にも結びついているといえよう。
なお、基本的にはインターネット上で公表されている資料や映像と筆者の体験に基づいて記述しているが、近年の動きについては直接関わることができずにいたため、筆者の推測が交じる点があることをご容赦いただきたい。
1、2003年区長選挙と練馬区政の構造

2003年4月、順天堂大学練馬病院の誘致や石神井公園駅前などの大規模再開発を推進し、「名物区長」と言われていた岩波三郎氏(練馬区職員出身)が4期16年の任期を終えて、練馬区長を退任した。
練馬区の長年の課題は、「インフラ整備」である。狭い道路の拡幅、高速道路(東京外環自動車道)の整備、地下鉄大江戸線の延伸、西武鉄道の連続立体交差化などは、現在まで40年以上継続している案件である。特に、大江戸線の延伸(光が丘ー大泉学園町)は、「練馬区の悲願」と言う人もいる。
東京都や国から「予算を獲得する」ことが重視される政治文化が今もあり、東京23区の中では珍しく、地方都市的な要素を持つ区といえる。その一方、緑地や公園を多く抱える豊かな環境に惹かれた作家や学者なども多く暮らし、いわゆるリベラルな市民運動も比較的強い。「光が丘団地」という都内有数の大規模団地も抱えている。「団塊の世代」が元気であった35年ほど前の光が丘では、「パチンコ店出店反対」などの様々な分野で、専門家も交えた市民運動が活発に展開されていた。
人口は751,465人(2026年4月1日現在)であり、東京23区では世田谷区に次いで二番目である。練馬区単独で見ても、政令指定都市の静岡市(2026年3月末現在で665,330人)や岡山市(2026年3月1日現在で707,875人)を上回る人口を抱えており、全国有数の大都市であるといえる。
岩波氏の後継者を決める2003年の区長選挙は、候補者が乱立した。岩波区長の下で助役(現在の副区長)を務めていた志村豊四郎(しむらとしろう)氏、元都議会議員の中山幹雄氏、元区議会議員の土屋俊輔氏、同じく元区議会議員の沖山一雄氏、高田千枝子氏が立候補し、志村氏が当選した。いわゆる「野党乱立」の選挙であり、「野党系の候補者の得票数をすべて合わせれば、当選した志村氏を大きく上回る」という構図だった。国政では、1997年12月に野党結集を目指した新進党が解党し、いくつかの政党が結成された後、1998年4月に新たな民主党が結党していた。練馬区の選挙は、国政の影響を受けやすいことが特徴である。
志村氏が区長に就任してから4年後の2007年には、現職の志村氏を含む3人の候補者が区長選挙に立候補した。候補者は、志村豊四郎氏、鮫島宗明氏、望月康子氏である。鮫島氏は元衆議院議員で、日本新党や新進党を経て、当時の民主党に所属。2005年の衆議院選挙(いわゆる「郵政選挙」)で落選していた。当時、鮫島氏や、郵政民営化法案に反対して自民党を離党し新党日本公認で立候補した小林興起氏(後に民主党に入り、2009年に比例代表東京ブロックで衆議院議員に復帰)らを破って当選したのは、小池百合子氏(現在の東京都知事)である。兵庫県から「国替え」をして立候補し、「刺客」としてテレビでも話題となった。
鮫島氏は、農学博士号を持ち、農林水産省に長く勤務した農業政策の専門家だった(2024年8月に逝去)。望月氏は、日本共産党系の団体が支援していた(2005年に日本共産党公認で衆議院選挙に出馬し、落選していた)。
筆者は当時、民主党の練馬区議会議員であった菅田誠氏(4年後の2011年に、練馬区長選挙に立候補)の事務所に出入りしていた。区議会議員選挙と区長選挙は同時に行われていたため、区議選を菅田氏の選対スタッフとして応援しつつ、区長選挙も合わせて見る連動型の選挙だった。なお、菅田氏が地盤としていた地区は、後に区長となる吉田健一氏と同じ田柄であった。
区長選挙の結果は、鮫島氏の「大差での敗北」であったが、75510票を獲得していた。野党の区長候補者は「民主党系」の鮫島氏と「共産党系」の望月氏に分裂しており、両者を合わせれば志村氏を若干上回る得票数であった。
2、政界再編と「民主党系」地盤の形成(2007〜2011年)

ここで、練馬区における「民主党系」勢力の歴史について、振り返っておきたい。1993年7月の自民党分裂と大規模な政界再編は、練馬区の選挙にも大きな影響を与えた。自民党所属の都議会議員であった吉田公一氏は離党し、結党されたばかりの新生党の公認を得て国政に挑戦し、衆議院議員に初当選した。前述の鮫島氏も、この選挙において日本新党公認で初当選している。なお、1993年の衆議院選挙は、最後の「中選挙区制」の選挙である。練馬区は豊島区とともに一つの中選挙区「東京5区」を構成していた。
この「旧東京5区」から当選した議員の中には、現在衆議院副議長を務める石井啓一氏(当時公明党、後に中道改革連合に参加)もいた。
その後、1994年12月に新進党が結党され、吉田氏、鮫島氏、石井氏は皆、新進党に合流する。さらに、1996年9月には民主党(鳩山由紀夫氏と菅直人氏の2人が代表だった政党、「市民が主役の民主党」を掲げていた)が結党され、練馬区からは弁護士の小川敏夫氏(野田内閣で法務大臣を務めた)が1996年10月の衆議院選挙に、東京9区公認候補者として立候補する(落選したが、1998年の参議院選挙東京選挙区で当選)。1996年の衆議院選挙は、「小選挙区制」に変わってから行われた最初の選挙である。練馬区の大部分は新たな「東京9区」となったが、東部は豊島区と合わさり「東京10区」となった。
最終的には、新進党が1997年末に解党し、吉田氏や鮫島氏は1998年4月結党のいわゆる「新・民主党」に合流する。結果として、小川氏ら旧民主党系と、吉田氏・鮫島氏らの旧新進党系が合わさり、新たな民主党の地盤が練馬区で築かれることとなった。吉田氏は東京9区、鮫島氏は東京10区を新たな活動選挙区とした。吉田氏は、2003年に落選するまで衆議院議員として当選を続けた。鮫島氏は、1996年に落選したが新たな民主党に合流した後、2000年に復帰した。練馬区では、現職の野党第1党所属の衆議院議員が不在の期間は、ほとんどなかった。
この点は、長い間民主党の国会議員が不在であり、野党の地盤が極めて弱かった板橋区とは、大きく事情が異なる。練馬区は、国会議員・都議会議員・区議会議員の系列関係が比較的強固であった。
その後、1999年10月に自民党・自由党・公明党の3党連立政権が樹立される。こうして2000年頃から、練馬区では「非自民・非共産」の枠組みで選挙を行うことが活発になり、区長選挙も野党陣営と自民党系との対決型となっていく。2003年9月には民主党と自由党が合併し、練馬区においては自由党出身の川島智太郎氏が民主党に合流(吉田公一氏落選後に民主党東京都第9区総支部長に就任し、2005年の衆議院選挙に民主党公認で東京9区より立候補。2009年から2012年まで比例代表東京ブロック選出の衆議院議員を務めた)する。
政界再編が進んだ末に行われたのが2007年の練馬区長選挙であり、国政と連動した構図であったことがわかる。2009年には「政権交代選挙」があり、民主党・国民新党・社会民主党の3党連立による鳩山政権が誕生する。練馬区においては、東京9区では総選挙の前年に、川島氏に代わって新たに民主党の総支部長に就任した木内孝胤氏(後に離党し、生活の党、維新の党、希望の党、日本維新の会などに所属した後に、事実上政界を引退した)が衆議院議員に初当選した。
2011年の練馬区長選挙は、こうした国政の動きの中に当初はあった。現職で3期目を目指す志村氏に対し、民主党所属の練馬区議会議員(3期目)であった菅田誠氏が出馬表明したのは、2011年2月27日のことである。2010年7月の参議院選挙で民主党が敗北し「ねじれ国会」となった後の最初の統一地方選挙であり、民主党には、国政与党ではあったが逆風が吹くことが予想されていた。
菅田氏は民主党を離党し、河村たかし氏(当時の名古屋市長、現在衆議院議員)が結党して間もなかった地域政党「減税日本」との連携を掲げた。区長選挙に向けた準備の最終段階であった3月11日に発生したのが、「東日本大震災」である。菅田氏は少年時代を仙台市で過ごしており、宮城県に複数の親族がいた。そのため、選挙の準備どころではなくなり、すぐに物資送付などの被災地緊急支援活動を開始することになった。「こんな時に選挙などやっている場合ではない」という有権者の声もあったが、東北3県(岩手、宮城、福島)の被災地と違い、東京都では選挙の延期は認められなかった。こうして、「自粛ムード」や「余震への不安」が強く漂う異様な雰囲気の中で区長選挙に突入した。「こんな非常事態で、区長を変えるなんてありえない」という世論の空気もあり、「野党陣営は、議論の土俵にすら上げさせてもらえない」ような状態であった。
結果として菅田氏は、2007年の鮫島氏を大きく下回る得票数(56756票)で終わり、共産党系の候補者であった古賀義弘氏の得票数と合わせても、志村氏には及ばない数字であった。野党陣営の得票数は、「民主党系」と「共産党系」がほぼ同数であった。
現職志村氏は、当時78歳と高齢であり、健康不安説があった。そして、2014年2月、区長在職中に自宅で急逝する。81歳であった。現在の練馬区長選挙が統一地方選挙の年度から1年前に行われているのは、これが理由である。
こうして、練馬区では、「自民党・公明党」、「民主党」、「日本共産党」の3つのグループに分かれて区長選挙を戦う構図が続くことになった。「野党がまとまれば、自民党・公明党の候補者に勝てる可能性が高い」ことは多くの関係者が認識していたと思われるが、組織の文化や政治思想が大きく異なっていた。「非自民・非共産」の勢力を拡大することを目指す、保守系の政治家とその支持者の力が強かったことの裏返しともいえる。
3、野党の空中分解から「市民と野党の共闘」による立て直しへ(2014〜2018年)

志村氏の急逝を受けて行われることになった2014年の選挙で初当選したのが、今年(2026年)4月に3期12年の任期を終えて区長を退任した前川燿男氏である。前川氏は、東京都で福祉局長や知事本局長などを歴任した元幹部職員である。野党からは、過去の選挙と同様に3人の候補者が立候補し、分裂選挙となった。白石惠子氏は民主党系、池尻誠二氏は野党系会派の「市民の声ねりま」出身、菊池紘氏は日本共産党系である。3人の候補者の得票数の合計は、当選した前川氏を大きく上回っていた。
なお、2012年12月の衆議院選挙で民主党は大敗し野党に転落、再び自民党と公明党が国政与党に戻っていた。国政の大きなショックと急な区長選挙で準備不足の中、どうにかして民主党が擁立した候補者が、区議会議員2期目の白石氏であった(翌年に区議会議員に復帰。立憲民主党に所属し、現在に至る)。
2018年の区長選挙は、元都議会議員(日本共産党)の松村友昭氏が「野党統一候補」となった。とはいえ、この選挙も国政の影響を強く受けていた。前年の2017年9月に起きた「希望の党」騒動である。
前述の木内孝胤氏は、2012年の衆議院選挙で落選した後、2014年に「維新の党」の公認を得て当選し、衆議院議員に復帰していた。維新の党は「おおさか維新の会」と分裂した後に、2016年に民主党と合併し、「民進党」となった。しかし、民進党は、日本共産党を含むいわゆる「市民と野党の共闘」を進めるかどうかの路線対立が絶えない政党であった。木内氏は民進党に離党届を提出(最終的には除籍)し、無所属を経て、小池百合子氏を代表とする「希望の党」の結党に参加した。選挙区は練馬区を含む地盤の東京9区ではなく、東京8区(杉並区)に「国替え」をして、2017年の衆議院議員選挙に立候補することになった。希望の党の内情は未だに不明な点が多いが、結党間もない政党で組織らしい組織ではなく、小池百合子氏(選挙の指揮を取っていたのは、議員歴の浅い若狭勝氏であったともいわれている)の個人商店的な要素が強かったものと思われる。
木内氏に代わって、東京9区から希望の党公認でこの選挙に立候補したのは、高松智之(たかまつさとし)氏である。高松氏は、元練馬区議会議員。自民党から都民ファーストの会を経て、希望の党に参加し、国政に初めて挑戦した(落選後、国民民主党から新たな立憲民主党を経て、2024年に衆議院議員当選、2026年落選。現在は中道改革連合所属。2026年練馬区長選挙では、吉田健一氏を支援した)。なお、東京10区からこの時立候補したのは、小池百合子氏の当時の側近で、希望の党結党の中心にいた若狭勝氏(弁護士)である。
こうして、民進党が事実上解党に近い状態となった2018年4月の練馬区長選挙では、旧民主党系から候補者を擁立する体力は、到底無かったものと思われる。それが結果として、日本共産党出身の松村氏に旧社会党系の勢力が相乗りするという、練馬区ではそれまで見られなかった新たな選挙の形を作り出すことになった(日本共産党、新社会党東京都本部推薦、市民の声ねりま、市民ふくしフォーラム支持という形での立候補であり、4年前の区長選挙に立候補した池尻氏や白石氏も松村氏を応援していたという)。
3、野党共闘から「地縁型」区政へー公明党の政権離脱と自民・維新の連立政権誕生ー(2022〜2026年)

木内氏の「国替え」と衆議院議員選挙落選に続いて、元衆議院議員の吉田公一氏が2018年7月に逝去し、名実ともに練馬区の旧民主党系勢力は空中分解した。2009年の国政での民主党政権発足当時に民主党に所属した練馬区を地盤とする各議員は、立憲民主党、国民民主党、日本維新の会、自民党などに所属政党がバラバラになっていた。
そのような中で、ほぼゼロから野党勢力を立て直すべく2022年4月の区長選挙に擁立されたのが、吉田健一氏であった。
なお、吉田健一氏と吉田公一氏は親族ではないことが、吉田健一氏の公式WEBサイトで明言されている。ただ、吉田健一氏は20代の頃に、当時都議会議員だった吉田公一氏の秘書を5年間務めていたという。運転手などもしながら、吉田公一氏の政治姿勢を間近で見ていたそうだ。「運転手、議員秘書は天職だと思ったほど」と、吉田健一氏公式WEBサイトの経歴紹介に記されている。
吉田健一氏は、祖父が田柄幼稚園の創立者で、父は地元でガソリンスタンドを経営した、先祖代々の練馬区民である。いずれの事業も、後に健一氏が継承している。田柄という地区は、現在も野菜などを生産する畑が残り、農村的な文化を残している。JA(農業協同組合)の支店窓口が生き残っている、東京の中では珍しい場所である。JAが設立した不動産管理会社もあり、その会社にアパート管理を委託している地主も少なくない。
そのような環境で育った吉田健一氏は、消防団やPTAなどの様々な地域活動に参加し、豊富な地縁を持っていた。議員秘書を退任した後は、司法試験挑戦を経て家業を継ぎ、学校法人(幼稚園)理事長や会社社長として経営に従事していた。
しかし、2022年の区長選挙は、前述の経緯から「野党共闘の候補者」として立候補することになり、「日本共産党、立憲民主党、社民党、生活者ネット、新社会党推薦」という形となった。吉田氏の地縁から考えると、自民党や公明党と強いつながりを持つ人が周囲には少なくなかったであろう。「4年前の選挙に出る前までは、自民党の党員でした。名前だけの党員でしたね」と、吉田氏本人が2026年4月6日のYouTube配信で語っている。
「吉田さんは応援したいが、周りの目があって難しい」という声が、2022年の区長選挙では、吉田氏陣営に多数寄せられたものと想像する。
にも関わらず、吉田健一氏は新人候補者でありながら現職の前川氏に約2000票差まで迫り、善戦した。前川氏のトップダウン型区政、住民よりも東京都や国との連携を重視し、大型開発を偏重する政治姿勢への不満や不安が区民の間に溜まっていたことがうかがえる。
吉田健一氏は区長選挙落選後、「再挑戦を決めていたわけではない」というが、地道に区民の声を聞き続けていた。そして、2026年4月の区長選挙にも再び立候補することとなった。立候補を表明したのは、2026年1月16日である。偶然ではあるが、高市総理大臣が衆議院解散の方針を記者会見で表明したのは、1月19日である。衆議院選挙に突入すると、当該選挙に関係しない政治団体による政治活動は制限されることになる。吉田氏の出馬表明は、まさに衆議院解散前のギリギリのタイミングであった。
80歳となった前川区長が次期区長選挙不出馬を正式に表明したのは、1月9日である。すなわち、2026年1月の時点で、自民党と日本維新の会(国政与党)は区長候補者擁立に大きく出遅れることとなった。
国政与党側の候補者として、都議会議員の尾島紘平氏(都民ファーストの会所属)が正式に立候補表明の記者会見を行ったのは、3月12日である。前川氏は区長退任を表明した記者会見の中で、「練馬区と東京都の連携」を重視する観点から、尾島氏の立候補に期待する発言もしていた。事実上の「後継指名」を受けていたといえる。とはいえ、尾島氏は、吉田氏より約2ヶ月遅れの立候補表明であった。急な衆議院選挙が無ければ、ここまで出遅れることはなかったであろう。
尾島氏は、小池百合子氏の国会議員時代の地元(練馬区)秘書、練馬区議会議員を経て、2017年に東京都議会議員に初当選。区長選挙出馬表明の時点では、都議3期目であった。大阪府出身で大学在学中に小池氏の秘書となったということであり、吉田健一氏とは対照的に、練馬区に元々の地縁は無かった。また、自民党を離党して都民ファーストの会に参加した「小池百合子氏の側近中の側近」である。自民党が推薦する候補者に対抗する形で2016年の都知事選挙立候補を表明した小池氏をいち早く支持した当時の地方議員「七人の侍」の一人が、尾島氏であった。
すなわち、自民党の中も尾島氏を区長候補者として支援することに対しては、一枚岩ではなかったと考えられる。また、2月の衆議院選挙で圧勝した自民党内に、油断がなかったとは思えない。
吉田氏が2022年とは違い、2026年の区長選挙では政党からの推薦を一切受けず「完全無所属」を掲げて戦ったことは、こうした背景を考えれば納得できるものである。前述の木内孝胤氏(元衆議院議員)も、政治家としてではなく個人的な信頼関係を持つ一人として、久しぶりに練馬区の街頭に立って、吉田氏を全面的に支援した。このような一人ひとりの動きが、一気にネットワークとなって広がっていった。政党関係者が前面に出ることはなく、吉田氏を信頼する一般の区民や友人たちが応援演説に立ち、手作りの選挙を作り上げていった。「地縁」や「個人の思い」が大きく影響する選挙戦となった。
また、区立小中学校統廃合計画をめぐる意思決定プロセスの不透明さ、約150億円まで建設費が膨れ上がった区立美術館建て替え計画など、前川区長時代の様々な政策の是非がわかりやすい争点となったことも、選挙の構図には大きな影響を与えたと考えられる。
国政の動きと練馬区内での様々な動きが、点が線となるように20年を超える長い年月をかけて結集したのが、2026年の練馬区長選挙における吉田健一氏の当選である。3万票を超える大差での当選は、決して偶然ではない。すなわち、国政の動きだけによるものでもなければ、一回の選挙の構図だけによるものでもない。
おわりに
吉田氏の当選が確実になった際、筆者は吉田氏選挙事務所からのYouTubeライブ配信を視聴していた。そこで挨拶していたうちの一人が、沖山一雄氏であったようである(音声が不鮮明であったが、周囲の人が「沖山さん」と言っていたと思われる)。本文の1章で述べた通り、2003年の練馬区長選挙候補者である。吉田健一氏を区長選挙に擁立する際に、沖山氏が動いたようである。2022年に吉田健一氏を支援した確認団体「練馬区長交代プロジェクト」の会計責任者として、沖山一雄氏の名前が記されている。
また、2026年3月13日実施の吉田健一氏キックオフ集会でも、沖山一雄氏が挨拶している。20年以上の歳月をかけた、長い戦いの成果が表れた瞬間であった。筆者も、2007年から2011年にかけて練馬区で実際に見ていた様々な政治的な出来事を思い出し、感無量であった。
選挙には、一つの決まった「勝利の方程式」があるわけではない。各地域ごとに抱える事情は違っており、それぞれに合わせたやり方を模索すべきだと思う。
「野党が一つになれば勝てるのだ」とか、「自民党は排除すべきだ」といった単純な数合わせで済むものではない。自民党の中にも、今の国政について危うさを感じる人は少なくないであろう。公明党の政権離脱などもあって、政局は流動化している。こうした状況の中で、国政の影響を様々な形で受けてきた練馬区長選挙を振り返ることには、一定の意義があると思われる。各地の選挙や地方自治の現場で奮闘される方々に、少しでも参考になれば幸いである。





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