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  • 執筆者の写真Osugi

知ってる? インクルーシブ教育 〜グループワークで感じた魂のグルーヴ〜

更新日:2021年3月11日

インクルーシブ教育について、zoom学習会のお知らせをいただいたのは2020年の暮れの頃だった。


 ◆Zoom学習会

 障害のある人びとのねがいに即して、社会の問いを立て直す


そこから半年ほど前の私「インクルーシブ? あー、知ってる知ってる。障害のある子も、健常の子も、同じ教室で学ぶってことだよね」。お恥ずかしい話だが、その程度の知識しか持っていなかった。そしてさらに恥ずかしいことに、インクルーシブ教育と言っても、重度の知的障害や医療的ケアの必要な子は別だよね、と、当時の私は無意識に思い込んでいた。


インクルーシブ教育とは何か。ウィキペディアによると、『人間の多様性の尊重等を強化し、障害者が精神的および身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能にするという目的の下、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組み』とのことである。うん、長い。河合先生のお話では、シンプルに「排除のない教育」と表現されていた。うん、分かりやすい。「子ども期にふさわしい生活から排除されない」こと、「排除をなくしていくための努力をあきらめない」こと。インクルーシブ教育とは、ゴールではなくプロセスなのだというお話を聞き、なるほどな、と思った。


私には小学生の子どもがいる。登校渋りや登校不安があり、学校に行く日は私が付き添っている。授業中もずっと教室の後ろに座っている日々。そんな中、とても気になる子がいた。いや、気になるどころじゃない。その子はとても目立っていた。奇声を上げる、教室の中を走り回る、教室を飛び出す、力の加減もなくクラスメイトを押す、噛む、所構わず寝っ転がるなどなど、とてもアクティブな子だった。こちらの言ってることは分かっているようだが、その子が何を言ってるのかは分からない。知的障害を持つ子だった。



さて、ここで半年前の私に話を戻そう。インクルーシブ教育について、「重度の知的障害の子は別だよね」と思っていた私である。当然、「何でこの子はここにいるんだろう?」と思った。「特別支援学校に行ったほうが、手厚く見てもらえるし、適切な療育も受けられるだろうに」。今にして思うと、全然インクルーシブじゃない。めちゃめちゃ排除の理論である。たちの悪いことに、私は自分のこの考えを、「そのほうがその子のため」という意識で持っていた。私にも屈託のない笑顔を見せてくれ、とても可愛い子である。嫌いだとかイヤな感情はない。だからこそ、「この教室じゃこの子のためにならない。特別支援学校に行ったほうがいい」と、善意のつもりで思い込んでいたのである。


秋になり、衣替えの時期になると、その子に新たな問題行動が出てきた。なんとかできないかな、と思い、図書館に足を運んだ。障害児教育のノウハウのような本がないかと思ったのだ。そして出会った本が『マニュアル 障害児の学校選択―やっぱり地域の学校がいい』である。この本を読み、雷に打たれたような衝撃を受けた。障害児が地域の公立校を選ぶこと、それは当たり前の権利の行使にすぎない。本の内容は徹頭徹尾、障害児の権利を軸に書かれていた。そうだ、障害児にも、権利がある。本当に当たり前の話である。しかし、私はその当たり前のことにすら思い至らず、「インクルーシブ知ってる〜」などとお気楽に考えていたのである。お恥ずかしい限りだ。


本との出会いをきっかけに、もっとインクルーシブ教育のことを、理論だけでなく実践の面でも知りたくなった。しかしなかなか時間が取れず、調べられていないのが現状だ。そんな中でいただいた学習会のお誘いはありがたかった。余談だが、子育て中の身としては、zoomでの開催というのも嬉しかった。子どものご飯やお風呂の時間を心配する必要もなく、トイレの付き添いで中座することもなく、スマホとイヤフォンだけで参加できる。ちょっと大げさな表現だが、ICTの進歩にも瞠目した。


学習会の中で、ハッとした言葉がある。レジュメに書かれた、「わたしたちぬきに、わたしたちのことを決めないで」という言葉だ。


Zoom学習会の風景とレジュメ

先述した知的障害を持つ子も、「わたし」のうちの一人である。私は、「わたし」さんのことをほんの一部分しか知らない。最初はクラスメイトから恐れられていた「わたし」さんは、少しずつ環境になれ、落ち着いて過ごす時間が増えてきた。クラスメイトの中には、教室の移動の際に「わたし」さんの手を引いてあげたり、上級生が「わたし」さんをからかった際に怒りの抗議をしたりする子も出てきた。そういう場面を目にするうちに、この子達は、言葉や概念を知る前から、自然にインクルーシブというものを体得してるんじゃないか、という、感慨にも似た思いがふつふつとわいてきた。「わたし」さんの保護者は、こういう子どもたち同士の関わり合いや、その中での成長を望んで普通学級を選んだのかもしれない。当事者でも保護者でもない私が、「この子は特別支援学校に行ったほうがいい」と決めつけていいことではなかった。「わたし」さんは私の中にあった一つの偏見をなくしてくれたのだ。


学習会に話を戻そう。河合先生がインクルーシブ教育について基本的なお話をされた後、参加者を数人ずつのグループに分け、話し合う場が設けられた。私の入ったグループでは、「インクルーシブ教育の素晴らしさは分かるが、それを実践するには、現状の教育現場ではとても無理なのではないか」という話になった。先生が足りない、設備が不十分など、教育現場にとにかく予算が割かれないことには、せっかくの理念も現場の負担を増やすだけになってしまいかねない。つまるところ、お金が必要である、と。文字にするとなんだか殺伐としているが、実際は活発ながらも和やかに話が進んだ。その後、各グループで出た意見や質問を発表し、それに河合先生が答えていく時間に。「どうすれば予算が取れるのか?」との質問に河合先生は「私も知りたいです」と答え、笑いを誘った。それ、私も知りたいところである。


障害児教育史が専門の河合先生。近年は美濃部都政時代の障害児教育について調査研究を進めている。

もっともっと聞きたいこと、皆で話し合いたいことがあったが、時間が押しに押していたので学習会はここまでとなった。本で読むだけでは得られない、知識の肉付けのような手応えと、聴いたり話したりする楽しさを味わい、とても有意義な時間となった。第二回目の開催を心から待ち望む。



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