更新日:2021年2月25日
近年の板橋区議会には、障害をもつ子どもの生活や、子どもにとっての視点からあるべき保育や教育を求める区民の陳情が多く出されています。他方で障害者の保育や教育の問題は、普通の子どもの話とは区別して議論されがちです。すべての子どもの笑顔が溢れる板橋区にするために行政がなすべきこと、市民ができることは何なのか。
今回は1月22日に「板橋のインクルーシブ保育・教育」をテーマにしたオンライン学習会で講師を務める河合隆平さんにメールインタビューをしました。

学習会への参加を希望される方は、以下の申し込みフォームをご利用ください。
https://forms.gle/tkuetEAYmVNMyVgBA
河合隆平さんのプロフィール
1978年生まれ。東京都立大学人文社会学部教員。
専門は、障害のある子どもの教育学・教育史。全国障害者問題研究会、全国保育問題研究協議会などで障害のある子どもの保育・教育実践を学ぶ。

―河合さんが障害のある子どもについて、専門に学び始めたきっかけなどあったら教えてください。
1996年に大学に入学しますが、教育学部の障害児学校の教員養成課程でした。といっても、最初から障害児学校の教員を志望していたわけではありませんし、これといった原体験もありませんでした。高校3年生の夏に、担任から「向いていそうだな」と言われて「おもしろそうだな」と思ってそのまま受験しましました。そんな感じでとりあえず入学したのですが、大学1年の5月に、先輩から「よさのうみに行ってみないか?」と誘われて初めて訪れた養護学校が、京都府立与謝の海養護学校(現・与謝の海支援学校)でした。
与謝の海養護学校は
「学校に子どもを合わせるのではなく、子どもに合った学校をつくろう」
「学校づくりは箱づくりではない、民主的な地域づくりである」
「重度の子どもは学校の宝」
という考え方に立って、就学猶予・免除により教育から排除されていた障害の重い子どもたちにひとしく教育を保障しようと1970年に本格開校した学校です。障害児教育において「よさのうみ」はあまりにも有名ですが、当時はそんなことは知る由もありません。
私も大学教員になってから学生と一緒に何度も与謝の海を訪問していますが、1日クラスに入れていただけるので、学生も子どもとかかわる時間がけっこうあるんですね。それで、私の見学先は「ひまわり学級」という重度重複学級でした。そこで初めて、障害の重い子どもたちと出会いました。
ストレッチャーに乗って寝たままの子ども。言葉をもたない子ども・・・子どもたちの姿に衝撃を受けたということはなく「養護学校にはいろんな子どもがいるのだな」という感じの受けとめでした。むしろ、先生たちがとても楽しそうに子どもとかかわっていたこと、教室の雰囲気がとても明るかったことが印象に残りました。
それから障害の重い子どものことをもっと知りたいと思うようになり、ボランティアなどで子どもとかかわる機会をたくさんもちました。大学1年の夏休みに、縁あって与謝の海養護学校がある地域で、障害のある子どもたちのサマースクールのボランティアをしたのですが、ある時、高等部の生徒が私の顔を前後から両手で挟むようにけっこうな力で叩いたんですね。一瞬の出来事で何が起きたのかわかりませんでしたが、メガネのレンズも粉々に割れて顔から血が流れていました。
目の前にいる彼は「ごめんなさい」と言わんばかりのとても困ったような表情で、そして悲しそうな眼をしていたのを覚えています。すぐに彼のお父さんが駆けつけてこられたのですが、お父さんも同じ表情でした。そのままお父さんの車で町の診療所に向かい手当てを受けたのですが、傷は大したことなかったので、申し訳ない気持ちになりました。
「こんなことはあまりないんですけどね・・・何があったのか・・・すみません・・・」とハンドルを握るお父さんの横顔を見ながら、「自分が原因だったのか。気づかないうちに彼に不安やストレスを与えていたのか」とさらに申し訳ない気持ちになりました。あれこれ考えてみても理由ははっきりしませんでしたが、彼の悲しい表情から「叩きたくて叩いたわけではない」ということだけはわかりました。
のちに「問題行動は発達要求のあらわれ」という言葉を学ぶことになるのですが、この体験から、表面的な行動だけではなく、内面に心を寄せて子どものことを理解したいと強く思うようになりました。そして、この時の治療費などは保険で対応されるということをうかがい、障害のある子どもを育てる親の大変さにも目を向けるきっかけとなりました。
教師になろうという気持ちはありましたが、このまま4年間勉強しただけで教師になれるんだろうかという不安も大きくなりました。そんな感じで「子どもとかかわるのは楽しい」だけじゃなダメなんだと思うようになり、教育実践や臨床の方面よりも、障害のある子どもたちの生活や権利の問題など、どちらかといえば社会的な視点から障害児教育を考えるようになっていきました。
ちなみに卒論では、病院の療育教室に通う障害の重い子どもの母親にアンケート調査をして、乳幼児期の療育がもつ母親支援の機能について考えました。
―最初は教師志望だったんですね。そこからどういう経緯で研究者を志すことになるのでしょうか。
1998年、大学2年生の冬に、全障研(全国障害者問題研究会)の学生発達保障セミナーに参加し、茂木俊彦先生と出会いました。茂木先生は「発達保障とはなにか」と題する講座で、障害児教育の価値をとても魅力的に語られた。障害のある子どもたちの発達は無限だというのであれば、発達を保障するための教育に下限をつくらせてはならないという話は、とても胸に響きました。茂木先生と話す機会があったので「このまま教師になるのは不安だ」と話したところ、「教師は現場に出てから学ぶんですよ」とおっしゃった。たった4年間で一人前の教師になれるという自分の思い上がりがとても恥ずかしくなりました。と同時にこの先生のもとでもっと学んでみたいと思いました。
そんな単純な動機で、大学院の修士課程に進学しました。勢いで進学したものの研究テーマが定まらず悩んでいましたが、最終的に戦前の保問研(保育問題研究会)の研究に取り組むことになり、障害児教育史の勉強を始めました。ご退職直前でしたが、清水寛先生(埼玉大学名誉教授)に教えていただく機会にも恵まれました。
結局、茂木ゼミで2年間学んだのち、博士課程は別の大学院に進学することになりますが、その過程で少しずつ、教師としてではなく、研究者として障害児教育に関わりたいと考えるようになりました。
大学院生になってから、全障研の全国事務局でアルバイトをさせてもらったりもしながら、全障研の活動に参加するようになりました。当時の自分にいわゆる「研究者」になれる能力があるとは到底思えませんでした。それでも茂木先生の姿にも学びながら、具体的には全障研ですけれども、民間研究運動のなかに身を置いて障害児教育に取り組みたいと願うようになりました。
全障研の研究運動は、障害のある人を含めたすべての人を「研究者」として自己規定し、本人や家族のねがいと生活実践に即して問題解決や権利の実現のすじ道を明らかにする共同の作業を「研究」として位置づけています。
学校教育をはじめ既存の社会の仕組みとこれを支える理論の多くは、障害のある人びとの存在を抜きに作られてきたし、その理論が障害のある人びとの権利侵害や不平等な事態を正当化することもある。だから、障害のある人びとにかかわる実践から出発して、そこから生み出される発達や生活の事実を汲みあげながら理論を再構成する。そして、再び実践をくぐらせて理論を深める。こうした作業がどうしても必要なのだと思います。
例えば、先ほど述べた与謝の海養護学校の学校づくりの理念である「学校に子どもを合わせるのではなく、子どもに合った学校をつくろう」。そこには、子どもが必要としていることを保障するのが学校だという、とてもシンプルですが極めて鋭敏な理論の転換がある。私にとって研究とは、このように障害のある人びとのねがいに即して、社会の問いを立て直すことです。そのためには、障害のある人びとの声を聴きとり、そのねがいに学び続けなければならない。そんなことがどうしたらできるかを考えながら、研究者としての歩みを始めました。
―河合先生自身はどんな子どもだったのですか? 保育園時代や子どもの時のエピソードがあれば教えてください。
とにかく「落ち着きがない」「一言余計」「やることは早いけど、雑だね」と言われ続けていました。あまり詳しくは言えませんが、いろんな意味で暴力にさらされるなかで、いかに「自分を守るか、正当化するか」ということばかり考えて過ごしてきたので、自分の気持ちを表現するのはとても苦手で苦痛でした。
保育所の卒園アルバムで将来の夢を書くところがあるのですが、思い浮かぶはずもなく、隣の子が「けいさつかんになるよ」と書いていたので、ヒヨコの吹き出しにそのまま「けいさつかん」と書き写しました。
そんな感じの子どもでしたが、音楽の世界があったことは大きかったかなと思います。父親がジャズ好きでトロンボーンを吹いていたのですが、休日はリハーサルか本番に出かけることが多く、よくついて行きました。それで私も気がついたらトランペットを吹くようになっていたのですが、父親の音楽仲間には本当にかわいがってもらい、音楽のこと以外にもたくさん教えてもらいました。小学校でも器楽部に入りましたが、男子は私一人。「女のなかに男がひとりー!」とよくからかわれましたが、まったく気にしませんでした。