足立区の小中一貫校に勤務した経験(後編)

 平成24年4月、私は4年間務めた足立区の校舎一体型の小中一貫校・新田学園から、板橋区の桜川小学校に異動しました。教職員にとって異動とは何度経験しても大変なものです。新しい職場、人間関係。そして、区によって、学校によって異なるシステムなど、慣れないことが多いからです。その中でも、この時の異動は、初めて感じる感覚があり、いつも以上に気持ちが昂っていたのを覚えています。


 それは、私たちはこの4年間に特別な経験をしてきたんだ、という意識から生まれたものだと思います。「小中一貫校から来ました。」と切り出しても、それがどんな学校なのかを一言で説明することは難しく、結局その話題を終わらせることが多くありました。それだけ、私の教員生活の中でも、平成22年は特異な1年でした。


 2年間、特に前年度に嵐のような準備期間を経て、平成22年4月、足立区2校目の校舎一体型小中一貫校・新田学園が開校しました。


 平成22年3月25日に、感動の卒業式を終えて、昭和23年から新田の子どもたちを育み、地域に愛されてきた新田小学校が閉じられました。卒業式翌日から春休みを返上して、引っ越し作業が始まりました。大きな荷物は業者が運んでくれますが、それ以外は、職員が自転車などで運びました。学びの場、思い出の建物が、あっという間に空虚な空間に変わっていきました。正直、開校までの記憶はあまりありません。

 その中で鮮明に覚えているのは、新校舎の大きさと綺麗さ、そして冷たさです。旧新田小は、小さな古い校舎でしたが、学び舎としても歴史が染みついた建物でした。それに対して新校舎は、最後まで教育の場の持つ温かさを感じることができませんでした。


 4月6日、子どもたちはどのように登校するのか、決めることや準備することがあまりにも多くて、こんな大事なことを決めていないことに気付き、結局、3月25日に卒業した中学生に、登校班のリーダーを頼まなくてはならなくなりました。


 始業式のあと、小中合同の入学式。涙のお別れをした卒業生がまた眼前を入場していく不思議な式でした。その後は、もう超過重労働、長時間勤務の日々でした。教職員の働きかた改革などの言葉も世に出る前、学園のすべてのスタッフは、過労死寸前の働かされ方でした。


 事前にいくらすり合わせをしても、小学校と中学校の文化の違いは随所に出てきました。今、この原稿を書くにあたり、その時の記録をもっときちんと取っておくべきだったと後悔しています。忙しさで、その場をなんとか進めることに気を取られ、当時はそんな余裕もなかったのでしょう。


 一例を挙げると、例えば離任式。小学校では、欠席の離任者に対して担当の児童は、校長先生に手紙を読み上げるのに対して、中学校では、式に出られない離任者には手紙を読まないそうです。小さな違いですが、お互いに前日になって、「え、そうなの?」と驚きました。中学校出身の校長は、小学校で4月によく行われている対面式(全校朝会に初めて1年生が参加する会)を当然知らず、「何をやるの?」と小学校の先生に確認していました。


 私たちは、ひとつずつの活動を小中お互いに確認しながら進めてきました。それにより、文化の違いを乗り越えていきました。後述しますが、それは小中の先生方の垣根を取り除き、真に信頼に足る教職員集団を生み出す礎となりました。

 しかし、おびただしい時間がかかりました。職員会議など諸会議は、おおむね今までの倍の時間がかかりました。全体の会議のあと、それぞれに分かれて、必要な打ち合わせを行うのですから、勤務時間内に終わるはずがありません。「小学校と中学校を一緒の校舎に収めれば一貫校・一貫教育だ。」なんて行政のもくろみは、浅はかそのものでした。


 初年度は、「小学校と中学校を同一時間割で動かせ。」という区の強権発動により、様々なところで矛盾が生じていました。私は5年生担当でしたが、7時間授業があり、20分休みもありませんでしたが、児童・生徒もよく頑張ってきたと思います。



 そうです。困難な問題は次から次へと起こりましたが、私の経験した開校からの2年間は、大きな荒れもなく、活動は流れていきました(私たちはそう捉えていました)。その要因は、前述した小中の教員の連帯や努力と共に、児童生徒の柔軟な抵抗能力と「良い学校にしていきたい」という思いがあったからだと思います。教育のアマチュアが考えたごり押しのカリキュラムの中、日々の学校生活を子どもたちは本当に頑張ってきてくれたと思います。

 そして、もう一つ、新田学園がスムーズな船出ができた要因に、小中のすり寄せとは別に、「お互いの文化は守っていこう」というコンセンサスができていたことがあると思います。


 小学校で言えば、高学年が学校を引っ張っていくという役割を担うことで成長していくというものや、卒業式を小学校最後の授業として位置付け、それに向かって取り組んでいくという小学校特有の文化や価値付けがあります。当時、一貫校先駆校では、高学年の役割を奪われて中間学年となり、宙ぶらりんな存在になった5、6年生の問題が生じてしまったと聞いていました。

 しかし、当時の校長先生はじめ中学校の先生方は、高学年の役割も理解し、できる範囲の中で尊重してくれたことが、安定した学校のスタートに繋がったのだと思います。


 そんな教職員や児童生徒の努力と正反対なのが、行政の態度です。4月6日に区長臨席の開設式を行って以降、新田学園への区の熱意は一気にトーンダウンしました(少なくとも現場にいた私はそう感じました)。「施設を造ってしまえば、もうおしまい。後は現場任せ」という姿勢に見えました。


 2つの実例を挙げます。一つ目は部活問題です。区は開校前には、「小学校教員も部活を担当すること」を指示していました。一貫校では学校長の英断で、小学校教員があまり過重にならないような配慮をしてくれました。でも、若手の中には、運動部を担当した教員もいました。小学校教員として勤務をした後に部活指導を行った彼の熱意には頭が下がりました。しかし、区が推奨した小学校教員の部活参加でありながら、彼は一人で大会引率ができなかったのです。区の中学校体育連盟が中学校教員以外の引率を認めなかったからです。今はどうなのかはわかりませんが、当時はこんな矛盾が解決されることはありませんでした。


 二つ目はプール問題です。新校舎のプールは3階に造られていました。そこは、マンション群から丸見えの場所でした。私たちは児童生徒が安心して水泳学習ができるようにと、その改善を求めてきましたが、区が取った対策は、小さいプラスチック製のフラッグ群を付けるのみでした(屋上のビアガーデンにたなびく旗みたいなもの)。私たち現場の人間は、「区はもう建てたら、関心がないんだ。」と最後は諦めていました。


 私は、2年後に板橋区に異動しましたが、校舎一体型の小中一貫校・新田学園は、驚きの結末を迎えます。何と人口増により、校舎がいっぱいになって児童生徒が入りきらなくなってしまったのです。今、新田学園は、第一校舎(5年生〜9年生)と第二校舎(1年生〜4年生)に分かれています。その予算は、区の税金なんですよね。何という無駄遣い、そしてまた引っ越し...。


 経験した者から言って、小中一貫校は矛盾ばかりの施策です。しかし、当時の新田学園もそうですが、そんな問題だらけの現場で、今も多くの教職員の仲間が学校をより良くするため、目の前にいる児童生徒のため、必死に働いています。

 私の新田学園での4年間の収穫は、そんな仲間に出会えたことです。小中の先生方が垣根を超えて本音で語り合い、困難な仕事を積み重ね、連帯感や信頼感をつかむことができました。そんな素敵な、全国の子どもたちのために、教職員のために、現場や地域を無視した制度を止めてもらいたいと願いを込め、このレポートを締めます。

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