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  • 執筆者の写真横井 英雄(元板橋区小学校教諭)

足立区の小中一貫校に勤務した体験(前編)

更新日:2021年4月12日

 平成20年4月、7年間勤務した足立区立鹿浜第一小学校から、区内の新田小学校へ異動しました。私にとって、衝撃的な異動でした。なぜなら、新田小学校が、2年後の平成22年に、足立区内2校目の校舎一体型の小中一貫校として開校が決まっていたからです。


 足立区では、平成18年に、扇中学校と興本小学校が校舎一体型の小中一貫校としてスタートしていました。しかし、この一貫校の当初の評判がすこぶる悪く、一貫校への異動は、特大の「外れくじ」とされていました。


 扇・興本学園に対しては、「仕事量が半端なく増えるらしい。」「小学校の先生も部活を持たされる。」「子どもが落ち着かないみたいだよ。」など良くない噂は後を絶ちませんでした。


 足立区は当時、小中一貫校に前のめりでした。小中一貫校で先行している品川区をモデルとして「いずれは区内の各地域に一貫校を建てる」と宣言していました。新田学園は区内2校目の校舎一体型校。足立のモデル校にしていきたかったようでした。


 実際に開校2年前の新田小学校に移ってみると、活気は殆どなく、重い空気に包まれているようでした。2年後に大変なことが起きる、その時自分はいるんだろうか、そんな先が読めない、見たくない、という思いが職員室にまん延していました。


 でも、容赦なく、行政の開校準備は着々と進んでいきました。当時の新田小学校と新田中学校は直線で500mぐらいの距離でした。開校準備の会議が月1~2回、交互に会場を代えて行われました。近い距離とは言え、授業を終え、子どもを帰してから歩いて中学校へ会議に向かわなければならない日は、心が重たくなりました。


 会議には、区から「新しい教育推進課」(ごめんなさい、名称を忘れてしまいました)の課長はじめ職員が3人同席していましたが、教育現場での経験がない方々で、区の方針などを伝えるのみでした。


 あと2年に迫った開校、本音では反対でもその準備を進めなければなりません。生活の決まりはどうするか、運動会や入学式・卒業式など行事はどのようにしていくか、校歌は、制服は...そこに集まった小学校、中学校の先生方も初めて直面する課題ばかりです。みんなで真剣に話し合いました。一貫校に納得している先生方は少なかったはずです。でも、真面目に話し合いました。


 会議を重ねるごとに深まったものが二つあります。一つは、小学校と中学校の先生たちの関係です。必要に迫られたとこともあるでしょうが、本音で話して、摺り寄せをしなくては解決しない課題ばかりです。今までのように、ともすれば「小学校の先生は...」「中学校ではなんで...」なんて、批判し合うレベルに留まっている訳にはいかないのです。


 仲良くなった中学校のベテラン先生のある言葉が、その時の会議に参加していた先生方の気持ちを代弁していると思います。「私も一貫校には反対ですよ。でも、やらなくてはならないんだったら、子どもたちにとって、少しでもよりいいものにしようよ。」


 でも、話し合いが煮詰まって、会議時間も伸びてくると、疲れとともに「なぜ、僕たちだけ、こんなことをやらされているのか。」という疑念も深まっていきました。当然のことながら、小学校も中学校も授業や校内の仕事のほかに行っている業務なのです。「外れくじ」的な気持ちとともに、一貫校への不信感はさらに深まっていきました。


 さて、会議の中で一番難航した課題が、生活日課の作成でした。区は一貫校のメリット(今考えてもそれがメリット?と思えることばかりでしたが)しか話しませんでしたが、小学校1年生と中学校3年生が同じ校舎で生活するのです。給食を準備する、食べる、片付ける時間だって当然違います。通常、小学校は45分、中学校は50分授業です。小学生にとって大切な20分休みは中学校にはありません。中学校では専科授業が多いので、授業と授業の間は10分休みを取っていますが小学校では5分など、当たり前のことですが、1日の生活の流れが違っています。


 日課表を担当した分科会の小中の先生方は、夏休みも返上して、この難しい日課表を作成しました。小学校中学校の特性を生かしたまま、朝や給食などポイントになる時間で、同時にスタートもできるという労作の小中一体型の日課表が完成し、会議でも承認されました。


 ところが、具体的にその日課表で動き出そうとした1月の会議の冒頭、毎回同席し、ほとんど発言すらしていなかった区の担当者が信じられないことを言い出したのです。「小中一貫校なのだから、授業時間は統一しなさい。日課表も1年生から9年生まで合わせること。」というものでした。


 その提案には、そこにいたすべての先生方が驚きました。今までの会議や準備は何だったのでしょうか。当然こんな発言が数多く飛び出しました。「小学1年生と中学1年生が同じ時間で給食を食べるのは無理です。」「小学校を45分にするには発達段階的に無理です。逆に中学校を45分にすると時数的に足りなくなります。」


 しかし、そんな至極正当な質問に対して、担当者からは、「区の方針だから。」「別に45分でも50分でも構わない。一貫校として統一することに意味がある。」などという答えにもなっていない官僚的な返事しか聞けませんでした。


 多分、そこに座っていた先生たちはみんな同じことを思ったでしょう。私もそう思いました。「ああ、この人たち、行政は実際の教育活動、子どもたちのことは全く眼中にないんだ。カタチだけ、小中一貫校というカタチにしか興味がないんだな。」と。


 今、この文章を書いていて、改めて思うことですが、小中一貫校問題の本質がここにあるような気がします。子どもたちのこと、教育活動のことに経験も関心も薄い人たちが進めているから教育問題として、かみ合わないのだと思います。


 多くの先生方が転入してきた平成21年。いよいよ一貫校開校の準備も急ピッチに進んでいきます。校歌や制服の選定委員会も動き始め、制服を何年生から着るか、今の中学校の制服はどうするかなど、決めなければいけないことは切りがありませんでした。


 でも、超多忙の中でも、小学校の先生方にはひとつの決意がありました。それは、残されたこの1年、新田小学校としての単独の教育をしっかり貫徹しようという思いでした。6年生を担当していた私も、単独の小学校の最後の卒業生とともに、日々の授業、運動会や学芸会などの行事に全力で取組みました。


 卒業式が迫ってくると、同時に新校舎への引っ越し作業も近付いてきました。卒業関連のただでも忙しい時期に、校内にあるすべての備品や資料を新校舎に持っていくものと廃棄するものに分けていきました。引っ越し担当の先生方は、本当に大変な任務で連日遅くまで仕事をしていました。


 忘れもしません。卒業式。子どもたちの言葉や歌声に会場から自然に拍手が起こりました。いかにこの学校が地域に親しまれてきたのか、それが無くなることがどんなに寂しいことか、感動と寂寥感に包まれた式でした。


 でも、私たちはその感動に浸っている余裕はありませんでした。その日のうちに、校舎を出なくはなりません。4月開校から逆算してのスケジュール。何と非人間的な計画でしょうか。式が終わって、戻ってきた職員室で慌ただしく作業している先生方、虚しい光景に別の意味で涙が出てきました。卒業という一番大切な日をも浸食してしまうこの一貫校のカタチに怒りが込み上げてきました。


 そして、4月。いよいよ小中一貫校開校。そこからはさらに怒涛の日々でした。設計図を何回も見せてもらい、担当チームも何度も検討した校舎内の設備。もちろん、新しく、広いスペースは確保されていましたが、どこか冷たい感じも持ってしまいました。低学年には水道の位置が高すぎるなど、実際に使ってみると、いろんなところで小中一貫の歪み、無理が露呈してきました。


 4月6日は、私の教員生活の中でも最も慌ただしかった1日でした。新しい校舎に子どもたちは来られるのかと朝から通学路に立ち、始業式、小中同時に入学式、そして区長を招いた開校式。みんながあたふたと新しい校舎を駆けずり回っていました。


 それからもドタバタ感は続きました。2年間準備してきたのに、いざ同居してみると、違うこと、事前に確認できないこともたくさん出てきました。 


 私たちの苦悩はさらに続きました。



(後編につづく)

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